最後に文子を抱いた夜
文子は平日は帰りが遅くなり、休日も出かけることが多くなった。僕はひとりでライブを見たり、映画を見に行き、夜遅くに彼女の部屋に泊まるだけになった。文子が恋をしはじめてから、一緒に寝ていても彼女は身体を許さなくなっていた。僕は性欲を処理するため、風俗店に通うようになった。文子とのこじれた関係のストレス解消だった。
ある夜、風俗店で遊んだ帰り、彼女の部屋へ行くと、彼女は突然自分から服を脱ぎはじめた。
「わたしのこと抱いて」
片想いの苦しさを、僕に抱かれることで忘れたいようだった。ベッドにも入らず、床の上で身体を求め合った。風俗で遊んできたばかりの僕はいつまでも達することができず、痛がる彼女はあきらめて身体を離した。それが僕が最後に文子を抱いた夜になった。
しばらくたったある夜、文子は僕に言った。
「別れて欲しい。ごめんなさい」
彼女は、社長への恋の悩みを彼の部下の村山君という子に相談していた。彼女より1歳年下。コンピューターの専門学校を出て、社長と会社を立ち上げたそうだ。その村山君が文子に好意を抱くようになり、ふたりは想い合うようになったのだ。社長への片想いで終わると思っていた文子の恋の行方は僕には残酷だった。
「君のほうが真面目だし、やさしいし、わたしは馬鹿なんだと思う。君のことが嫌いになったんじゃないの。でも今は好きじゃない」
その夜、朝まで僕たちは話し合ったが、文子の決心は固かった。普段涙を見せない彼女が、泣きながら別れて欲しいと繰り返した。今までの5年間はなんだったのだろうと思うとやりきれない気持ちだった。彼女が大阪に行っても終わることなく、結婚の約束をした僕たちの関係だったのに。「わたしたち、わけがわからないうちに結婚しちゃえばよかったね。そうすればこんなことにならなかったのに」「少し寝たほうがいい。今日仕事だろ」泣きはらして紅潮した顔の文子に僕は言った。
少し仮眠したあと、僕は部屋にあったそうめんを茹でて暖かいにゅうめんとポーチド・エッグを作った。ふたりで食べる最後の朝食だった。そのあとシャワーを浴びる文子の背中をボディ・ブラシで洗ってあげた。
「君、今日会社は大丈夫なの?」
「電話して、遅刻していくからいいよ」
「もう部屋に来るのはやめてね。鍵も返して」
「電話はしてもいい?」
「・・・うん・・・時々なら・・・」
文子の出向先の会社のある駅まで、一緒に電車に乗って行き、そこから小田原へ向かった。そのときにはまだ、僕たちはきっとやり直せると思っていた。
それは、ふたりで長崎に帰省した翌年の夏の日のことだった。