僕は統合失調症

30歳の時に発症した統合失調症の発病・入院・回復の記憶

博士の愛した数式

精神障害を扱った映画は意識的に見るようにしている。この映画は交通事故により80分しか記憶が維持できなくなった、記憶障害*1の数学者の物語。心の障害というよりは脳の機能障害だが障害者ではある。ノーベル賞を受賞した統合失調症の数学者ジョン・ナッシュを描いた「ビューティフル・マインド」を思い起こさせる。

寺尾聡演じる「博士」は義姉の屋敷の離れにひとり暮らしている。食事や身の回りの世話は家政婦に任せているのだが、毎日通ってくる家政婦の深津絵里のことも記憶には残らない。合うたびに初対面の挨拶をし、「君の靴のサイズはいくつかね」と数字の話題でコミュニケーションをとる。博士の記憶は10年前でストップしているが、それまでに身に着けた記憶は失われず、数学と野球への愛はそのままである。

映画の中で素数友愛数虚数など数学の概念が語られるのだが、世の中の役には立たないけれど美しい物として博士は様々な数式を愛する。それは同時に家政婦や彼女の息子と触れ合うためのツールにもなる。

記憶障害の体験といえば、僕自身も睡眠薬ハルシオンを服用しているので副作用で何度か健忘の症状が出たことがある。ちょうど酔っ払って記憶を失うように、薬を飲んだ後の記憶が途切れてしまうのだ。その間も意識はあるので、身に覚えのない言動をしてしまう厄介な症状だ。「入院編」で詳しく書くつもりだが、健忘になったときに同室の患者に自分の秘密にしていたことを話し、翌日皆がそのことを知っているのに驚いたことがある。幻聴が一種のテレパシーだという妄想を持っていた僕は、自分の心の中をテレパシーで暴かれたのだと思い込んでしまった。

退院後も、自分の病気のことを知らない友人の家に泊まるときなどは健忘が起こらないかと不安だった。人間は過去から未来までの連続した時間の中で自己を形成している。その時間が中断してしまうというのは自分自身にとっての危機である。記憶障害の博士にとって、自己は遠い過去とその時その時の現在の中にしか存在しない。


精神病理学者木村敏は「時間と自己」*2の中で分裂病者と鬱病者の時間意識の違いを比較している。いつも未来を先取りしながら、現在よりも一歩先を生きようとしている分裂病者は、現在の自己に対して否定的な態度をとることになる。それに対し鬱病者はつねに「とりかえしのつかないことになった」という後悔の形で自責感を抱き、自らを秩序の中に閉じ込めることで保守的に生きようとする。


僕自身は現在、日々を楽しんで人生を肯定的に生きている。この病気になったことへの深い後悔もない。将来どうなるかという不安への留保つきではあるが。過去の楽しい想い出と、現在の日々の小さな楽しみに生きている僕の姿は、映画の中の「博士」の姿に案外近いのかもしれない。

博士の愛した数式公式サイト

*1:記憶障害者が主人公の映画といえば「メメント」もあるがこちらはハードなサスペンス物メメント [DVD]

*2:時間と自己 (中公新書 (674)) 中公新書 昭和57年発行