文子の卒業旅行
文子にも学生時代の終わりがやってきた。彼女は大手コンピューター会社に無事内定。卒業旅行で友人と2人、ヨーロッパへ1ヶ月近い自由旅行に出かけた。旅先からは、せっせと絵葉書を送ってくれた。
「オルセー美術館に行って直に見ると印象派ってとてもよかった。モネもドガもetc.でも私はボナールが一番気に入りました。」「ヴェネツィアはとても魅力的ですし、ウィーンも良かった。ドイツも素敵だった。でも今度は君と来てもっとゆーっくり街を歩きたいよ。」
ところがある日、文子から突然国際電話がかかってきた。ローマからだった。就職先の会社から実家に連絡があり、配属先が大阪になってしまったというのだ。彼女は今にも泣き出しそうな声だった。そして旅が終わりに近づいた頃の絵葉書にはこうあった。
「もうずーっとこっちにいたい。オーサカなんかにいきたくないよお。じゃあね」
文子が大阪に行くと電話で聞いた夜、涙が止まらなかった。自分の中で彼女の存在がいかに大きかったのかに気がついた。一緒にいる時間が当たり前すぎてあまり考えていなかったのだが、そのとき文子と結婚しようとはっきり思った。でも社会人になって間もない自分にはすぐに結婚できる力はありそうに無かった。彼女を大阪に行かせないで同棲しようなどとも考えたが、彼女の将来への可能性を自分のわがままで失わせてしまうことはできなかった。
文子が日本に帰ってくる日、会社を早退して成田空港まで迎えに行った。都内に向かうリムジンバスの中では、あまり言葉も交わせず重苦しい気分だった。彼女のアパートに着いて、僕は一冊の本を彼女に渡した。精神科医R.D.レインの「好き?好き?大好き?」だった。本を開いて50番目の詩を文子に見せた。
あなたはこれからこっぴどい目にあうのよ
あなたはこれから一生後悔して暮らすのよ
もしわたしと結婚しようものなら
もしわたしと結婚しようものなら
(中略)わたしたちはみじめな暮らしを暮らすことになるのよ
もしわたしと結婚しようものなら
それが僕の文子へのプロポーズだった。その夜はふたりで手をつないで静かに眠った。