僕は統合失調症

30歳の時に発症した統合失調症の発病・入院・回復の記憶

大胆な小僧

僕たちに訪れた破局について語る前に、もう少し文子との思い出を書こう。

僕は彼女を「小僧」と呼んでいたが、忌野清志郎が好きな彼女は自分のことを「おいら」と言っていた。大阪時代、新幹線で同僚たちと出張に出かけるとき、よく3人がけシートにごろりと横になり、東京まで眠ってきたという。同僚からは「豪快さん」とあきれて呼ばれたらしい。

何事も知識から入っていくタイプの僕に対して、文子はとても感覚的だった。一緒にコンサートや映画に出かけると、彼女の感想を聞くのが楽しかった。サン・ラ・アーケストラが前座で、マイルス・デイビス・バンドが演奏を始めたときには「空気がいっぱいになったみたいだね。隙間がないね」と感嘆した。先鋭的なサックス4人だけのアンサンブルの、ワールド・サキソフォン・カルテットを見たときには、「君と今まで見たライブの中で一番良かったよ」とその緊密でグルーブするサウンドに夢中になっていた。YMOのメンバーで言えば細野晴臣が一番のお気に入りだったのも、感覚的な文子らしい。小泉今日子も好きで、会社の飲み会でカラオケに行くと「なんてったってアイドル」が定番だったようだ。キョンキョンが刈り上げにしていたときには、文子も髪の毛を短く刈った。

食い道楽の文子は、小さい身体で和洋中エスニック何でもよく食べた。ビールはよく飲んだし、日本酒、焼酎、ワイン、中国酒、カクテルとふたりで飲むと陽気に酔っぱらった。新宿の桂花ラーメン、心斎橋の金龍ラーメンなど九州女らしくトンコツラーメンが好きだった。忘れられない味はキャビア丼。銀座の老舗ロシア料理店バラライカでたまにキャビアを食べていたのだが、一度思い切り食べてみたいといってクリスマスに彼女がビン入りのキャビアを買ってきた。白いご飯にキャビアをたっぷり載せて一気に食べたのだが、贅沢な旨さだった。

文子は性的にも大胆だった。長崎に一緒に帰省した時には、寝台列車の僕の寝台に入り込んできて、「しばらくエッチなことできないからね」と僕のペニスを口に含んでくれた。小さな美術館の男女共用のトイレに一緒に入って、交わったこともある。「今までで一番感じちゃった」と文子はけろりといった。東北の温泉では、ものおじせず混浴の風呂に一緒に入った。東北の遅い桜が風呂の前に咲いていて、最高の温泉旅行だった。

「海外はやっぱり結婚してからね」という彼女との旅行で一番楽しかったのは沖縄だ。まだ今のような沖縄ブームになる前のことで、那覇牧志の市場も東南アジアのようなディープな雰囲気だった。初めて食べた沖縄そばとてびち(豚足)の旨さに、僕たちは驚いた。きれいな海でシュノーケルをつけた文子は熱帯魚探しに夢中になり、いつまでも海に浸かりすっかり日焼けした。その夜、彼女は焼きすぎた肌がひりひりほてって大騒ぎだった。基地の町コザ(沖縄市)の米兵の家族ばかりが泊まるホテルで、外国にいるような体験をしたのも忘れられない。


「来年は君と一緒にお正月を過ごしたい」

いつも盆と正月には帰省していた彼女からそんな年賀状が届いた年、僕たちはつきあいはじめてから5年目をむかえていた。にきびの目立つ娘だった文子は、肌もすっかりきれいになり化粧もうまくなり、ちょっとは女らしい魅力も増してきた。ときどきはっとするようにきれいに感じるときがあった。胸はあいかわらず小さかったけれど。

文子の小さな胸を触っていると、僕は福永武彦の「草の花」のヒロイン藤木千枝子を思い出した。「藤木千枝子は決して際立って美しい少女ではなかった。」と主人公が語る女の子。

ーあたしのお乳、こんなに小さいのよ、と小さな声で千枝子が言った。

そう言うなり、恥ずかしくてたまらないように顔を僕の方に埋めて来た。その小さな暖かい乳房、僕の嘗て知らないもの、それは僕の情熱の全部を沸騰させるのに充分だった。


文子は3月頃から、小さな関連会社に出向するようになり、仕事が忙しくなってきた。デートに誘っても断られることが時々あり、ふたりの関係はなんとなくギクシャクしてきた。「仕事のせいなんだろう」僕は不満を感じながらもそれほど気にしてはいなかった。そんな状態がしばらく続いたある日、僕は彼女から思いもしなかった言葉を聞くことになるのだが、それまで悪い予感のかけらもなかった。

草の花 (新潮文庫)

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