僕は統合失調症

30歳の時に発症した統合失調症の発病・入院・回復の記憶

ふたたびの東京生活

文子が東京に戻ってきて最初のゴールデンウィークは、久しぶりに東京でゆっくりデートした。彼女の新居のためにあちこちテーブルを探し、恵比寿のインテリア・ショップで、シンプルで明るい色の木のダイニングテーブルを見つけた。結婚してからも使えるようにと、思い切って6人がけの大きなテーブルを買った。僕はイタリアのアルテミデ社製のモダンなデスクライトをプレゼントした。高台に立つマンションの彼女の部屋は見晴らしがよく、小さく東京タワーも見えた。

僕はまた小田原から彼女の部屋に通うようになった。週の半分は泊まっていた。その頃僕は大きな中華なべを買ってきて、中華料理を作るようになった。レシピ本を見ながらいろいろなものを作った。海老チリ、油林鶏(ユーリンチー)、青菜炒め、チャーハン、五目ビーフン、青椒肉糸・・・。僕の上達ぶりを見て、料理下手の文子は「君って料理の天才だね」とおだてた。でも、文子が丁寧に作るクリームシチューと、トマトとツナのスパゲティーは僕の好物だった。よくねだって作ってもらった。居心地の良い彼女の部屋で、料理をつくりビールやワインを楽しむことが多くなった。ふたりで生活しているんだなと感じられてうれしかった。仕事のストレスで、彼女に手荒に接することもなくなり、平和で穏やかな関係が続いた。

文子のお父さんが仕事の関係で東京に来る機会があり、夫婦で上京した。文子のお気に入りの銀座の老舗ロシア料理店で会食し、僕たちはご両親に結婚の意志を伝えた。「そのうち、文子と一緒に長崎に遊びに来てくださいね」と言われ、無事に会食は終わった。彼女の実家に文子と一緒に帰省したのは、翌年の夏休みのことだ。寝台列車に乗り長い時間かけて長崎まで向かった。九州の夏は暑く、日差しが眩しかった。文子の家の庭は一面の芝生で濃い緑。彼女は退屈するとピアノでクラシックを聴かせてくれた。白いワンピースを着てピアノを弾く彼女の姿を今も覚えている。長崎は魚がおいしかった。魚屋さんに届けさせてくれた、大皿の鯛と平目の刺身はすごかった。文子とふたりで街に出かけたり、雲仙までご両親と一緒に日帰りで温泉に行ったりして、夏休みは過ぎていった。帰る前日は、長崎のお盆の祭、精霊流しの日だった。街中を船の形をした山車が練り歩き、爆竹が鳴らされ続ける。ロマンティックな名前からは意外なとても騒がしい行事だった。「こうやって、あんたたちが子供でも連れてきてくれるようになるといいわねえ」とお母さんは言った。


「ふたりで、お金をためないといけないね」「私は結婚式、富士屋ホテルでやりたいな」


文子は時々そんなことを話したが、まだ具体的な話は全然進まなかった。「このまま結婚していくんだなあ」と僕も思っていたが、今の生活が充分満ち足りていて、彼女が大阪にいた頃感じたような結婚への切望は失われていた。新大阪の駅で待ち合わせたとき、抱き合わんばかりに高揚していた僕たちの温度は、次第に倦怠期を迎えた夫婦のようなものへ変わっていった。「永すぎた春」は僕たちにも訪れたのだ。