僕は統合失調症

30歳の時に発症した統合失調症の発病・入院・回復の記憶

香織のこと

香織は文子とは対照的な女性だった。文子よりひとつ年上。短大卒で会社では僕の先輩だった。営業から総務に移って机をならべるようになり親しくなった。文子とつき合っていた頃にも、ふたりで小田原城の夜桜を見にいったり、ジャズ・バーで飲んだりする友達だった。

黒い髪を背中まで伸ばし、色白でふくよかな丸顔。とてもかわいらしかった。人見知りで内弁慶な文子と違い、明るく社交的な彼女は、会社でも「ブーちゃん」の愛称で皆に人気があった。

熱海出身の香織は、会社の規定で自宅通勤ということにしているのだが、上司に内緒で小田原で一人暮らしをしていた。幼い時に母親を亡くした香織は、自分で何でも身につけようと、華道と着物の着付けを習っていて、料理も得意だった。和食をよく作ってくれた。部屋にはいつも季節の花が飾られていて、インテリアも女の子らしく落ち着いたかわいらしさだった。

僕はほとんど毎日、彼女の部屋に泊まった。朝は時間をずらして別々に出勤。昼間は会社でずっと一緒。昼食もよくふたりで食べに行き、毎日のように飲みにいったり、部屋で料理をしたり。僕は泊まると必ず彼女の身体を求めた。香織のすいつくような、きれいな白い肌、大きな胸と豊満な腰に僕は溺れた。文子にはなかった女の魅力だった。文子を失った欠落を埋めるように、僕たちは濃密な時間を過ごした。

その年のクリスマスには富士屋ホテルを予約した。ダイニング・ルームで白ワインを飲んでディナー。クラシックな洋館に部屋を取り、持参したロウソクの灯りの中で抱き合った。しかし、その時も僕の心の中は文子と富士屋ホテルに来た時の想い出でいっぱいだった。

そんな僕の心を香織も察していた。彼女は文子にとらわれ続ける僕に、怒りをぶつけることも度々あった。台所のグラスや皿を壁に投げつけたこともある。「小僧なんかのどこがいいの」と泣いて訴えた。会社では決して見せない、情の激しい香織の姿だった。その後彼女はこんな手紙を僕に渡した。

いつもいつも 大人になり切れないわたしでごめんなさい
でも、本当にSさんの事が好きだから、すぐ熱くなってしまうんだ。
これからは、お互い前向きに頑張ろうね。
小僧のときとは、違ったつき合い方をしようよ。
同じ道を依存しあって生きるんじゃなくて、
お互いしっかり自分の足で、距離を置いて、
励ましながら歩いていきたい。
人生いろいろあるからおもしろいんだよね。
いつか小僧の事を好きになれる私になる。

その年は大晦日も彼女の部屋で過ごし、一緒に年賀状を書き終えると、僕たちは上野駅へいき夜行列車に乗り込んだ。列車の中で新年を迎えビールで乾杯し、向かったのは秋田。田沢湖奥地の山あいにある乳頭温泉郷*1の一軒宿に泊まった。深い雪におおわれたテレビもない小さな宿。

混浴の露天風呂のまわりに降り積もった雪が、裸電球に照らし出されている。僕たちははりこんで買ってきたドンペリを雪に突っ込みキンキンに冷やし、一緒に風呂に浸かり、雪見シャンパンを楽しんだ。
「小僧だったら、もっとはしゃいで大喜びだっただろうな」と思いながら。

そして旅から帰ってすぐ、僕は香織を大きく裏切る行為をしてしまうことになる。

*1:いくつもの一軒宿が点在する山の温泉 冬は雪景色が見事