僕は統合失調症

30歳の時に発症した統合失調症の発病・入院・回復の記憶

バンド活動再開

1月の営業所長面談で、正式に辞職願いを申し出た。しかし、実際に退職できたのはその年の9月のこと。後任の人事がなかなか決まらず、引継ぎにも時間がかかった。3月には香織が先に退職したが、東京に出たのは先の話で、しばらくは小田原でアルバイト生活をしていた。桜の咲く京都・吉野を旅したのはその年の春のことだ。

僕は小田原のアマチュアたちのジャムセッションに度々参加するようになり、ジャズ・バーにもボトルを入れて通った。マスターに紹介されたテナーサックスの広川君と親しくなり、9月はじめの小田原のジャズ・フェスティバルに彼とバンドを組んで出演することになった。本番1週間前、バンドのメンバーの顔合わせ。ベースのN君とドラムのクマ君。4人で組んだフリージャズ・バンドだった。ジャズ・フェスティバルでのデビューはまずまずの出来で、スタンダードを演奏するほかのバンドの中では異彩を放っていた。このバンドでの活動はその後も続き、単独のライブも何度も企画した。プロを目指していた他のメンバーたちは、やがて東京・横浜に上京し、バンドの活動の拠点も都内のライブハウスに移った。

9月いっぱいで退職した僕は、10月から都内の専門学校で司法書士資格の勉強を始めた。会社の寮を引き払い、横浜の実家に戻ったが、まだ小田原にいた香織のアパートにしばしば泊まった。じきに香織は都内の会社で派遣社員として働くようになり、翌年の春からは専門学校で建築の勉強を始めた。香織が都内にアパートを借りると、僕はそこから学校に通った。勉強とバンド活動と香織との生活に充実した日々だった。お金のなかった僕たちは、都内の花の名所をよく訪れた。後楽園の桜、小石川植物園根津神社のつつじ。外食はひかえ香織の部屋でいろいろな料理を作って食べた。近所のスーパーでよくブリのかまを買ってきて、オーブンで焼くのがご馳走だった。香織の部屋は6畳のワンルームで小さかったが、ふたりの生活は幸せで穏やかだった。夏休みには、高速バスで新潟まで旅行をした。夏の岩がきと地酒がおいしかった。

ドラムのクマ君は、自身がボーカルを担当するロックバンドもやっていて、僕と広川君もホーンセクションとして参加した。ベースはN君、ギターがゆきお君、ドラムが岡本君。この6人の大所帯で京都・大阪へ演奏ツアーに行ったのは楽しい想い出だ。ワゴン車に楽器とメンバーがぎゅうぎゅう詰めになり、京都の歴史あるライブハウスや大阪の大きなライブハウスで演奏した。学生の頃に戻ったような体験だった。

しかしこんな生活も、やがて終わる時がやってきた。夏ごろから、香織がデートの誘いをしばしば断るようになったのである。その原因を知り僕は愕然とすることになる。