T文庫のアデン・アラビア
ぼくは二十歳だった。それが人生でもっともすばらしい年齢だなどと、ぼくはだれにもいわせはしない。
病棟のホールの片隅のT文庫と呼ばれる図書コーナーでポール・ニザンの文庫本、「アデン・アラビア」を見つけ、その書き出しの一節に惹きつけられた。僕は30歳で、今精神病院に入院しているけれど、健康で未来への希望のある20代の頃が一番幸せだったのだろうか?そうではないと僕は思いたかった。まだ僕の人生にはこれからがある。いままでより幸せな日々が待っているかもしれない。
そのときの僕には、その本を読むことはできなかった。小さな活字を追うと目がしょぼつき集中することができず、文章が頭の中に入ってこなかった。僕はその書き出しの部分だけを繰り返し目にした。ポール・ニザンが伝えようとしたことことは関係なく、この一節は僕のそのときの気持ちに置き換えて理解された。
新聞や本を読むことができず、テレビを見るか漫画を読めるぐらいの状態だった。こんな症状からはたして回復できるのか、不安だった。しゃべろうとすると、ろれつがまわらず、口が歪み、やたらとのどが渇いて苦しい。また、入院してからの出来事の記憶がはっきりしないのも気になった。急性期の症状を抑えるため大量に投与された薬の副作用もあったのだろう。
僕は看護婦の磯山さんに、「アデン・アラビア」を見せて、「僕も若い時だけが幸せなんじゃないと思う」と気持ちを話した。彼女は「そうよね。人生まだこれからなんだから」といってくれた。
磯山さんは、ショートカットで、さばさばした明るい人で、高校生の時好きだった美術部の部長の真由美ちゃんに似ていた。入院してからしばらくの情緒不安定な少し躁気味の状態がおさまってきた頃、「Sさん、穏やかになってきたわね。今のSさんが本来のSさんかしら?」といわれた。
磯山さんがやけに厚化粧をしていた時に、「化粧、ちょっと濃いんじゃないの」と声をかけると、鏡をみた彼女は「あら、ほんとだ」とあわてて、化粧直しをしにいったこともある。
退院が決まったとき、「アデン・アラビア」を記念に貰っていってもいいかなあと磯山さんに尋ねた。彼女はちょっと考えてから「でも、Sさんみたいに誰かがこれからこの本を見て、心に感じることがあるかもしれないじゃない。その人のために残していって欲しいわ」と答えた。
退院してかなり過ぎてからふと思い出して「アデン・アラビア」を探し手に入れた。結局未だに、書き出しの数ページしか読まないでそのままになっている。
- 作者: ポール・ニザン,篠田浩一郎
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 1966/12
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