僕は統合失調症

30歳の時に発症した統合失調症の発病・入院・回復の記憶

香織に似た女の子

病院では、患者のリハビリとレクリエーションのために喫茶コロンというのをやっていた。患者がコーヒーを淹れたりレジをやったりして、お客でやってくる患者にサービスするのだ。文化祭の模擬店のような感じだ。

入院1週間を過ぎても、僕はまだ散歩に出ることも許可されなかった。暇つぶしにコロンにコーヒーを飲みに行ってみると、ちょうど文ちゃんがレジ係をやっていた。彼女は丸顔でぽっちゃりしていて、香織によく似ていた。学生に見えるくらい童顔だが、話しかけてみると20代半ばで、大人しくおっとりした女の子だった。彼女とは主治医が同じH先生だということもあって、よく話しをするようになった。


「Sさんは、H先生に雰囲気が似てますよね」
「僕の彼女、文さんによく似てるんだよ」
「ほんとですか?」


入院当初、僕はかなり情緒不安定だったが、彼女と話していると心が落ち着く感じがした。お互い病気のことについてはほとんど話さなかった。


テレビのあるホールの隅に、「T文庫」といって古い本や漫画が集められたコーナーがあった。手塚治虫の短編集「ザ・クレーター」を見つけ、僕は文ちゃんに「これ面白いから読んでみなよ」とすすめた。翌日、文ちゃんが「ゆうべ読んでみましたよ」と言って話しかけてきた。


ザ・クレーター」の中に「八角形の館」という作品が収録されている。漫画家になるか、普通に大学に進むか、人生の岐路に立った主人公が不思議な老婆に出会う。コインの裏表でどちらの人生を選ぶか決めなさいといわれ、主人公は漫画家の道を選ぶことになる。しかしもしも人生をやり直したいと思うときが来たなら、1回だけ運命をチェンジすることができる「八角形の館」という場所があると老婆は言い残していく。その後漫画家として成功しながらも、スランプに陥った主人公は、八角形の館を探し当て、大学に進み会社員となったのち意外な展開をする、もうひとつの人生をやり直すことになるのだが、最後には2つの人生の選択に引き裂かれ残酷な結末をむかえる。


僕も「八角形の館」の主人公みたいな人生だったんだよと、僕は文ちゃんに話した。僕は就職を決めた頃、しばらく働いてお金を貯めたら、一度世界をひとりで旅してみたいという夢があった。当時つき合っていた文子にもそのことは話していた。彼女も「1年や2年だったら、君のこと待ってるから、いつかやってみなよ」といってくれた。しかし現実には、そのまま会社員を続けて文子と結婚する道を選ぶことになった。僕はそれでよかったのだと納得していた。その文子から別れを告げられることがなければ、僕の人生はごく平凡だが幸せなものになっていただろう。

今、こうして精神病院に入院することになった自分の人生をもう一度やり直すことができるなら、どこから僕はやり直したらいいのだろうか。本当に一人で世界放浪をする人生もあったかもしれないのだ。


そんなことを、僕は文ちゃんに話した。彼女は「でも、Sさんには今、彼女(香織)がいるじゃないですか。早く退院できるといいですね」と言ってくれた。文ちゃんは入院中、病棟内で一番気になる女の子だった。「文ちゃんのこと好きだなあ」といって「彼女がいるのにそんなこと言う人嫌いですよ」とはぐらかされたりもした。


彼女とは同じ頃に退院して、その後通院時に何度か会ったけれど、彼女は数年後に通院先を変えてしまいそれきり会うことはない。今はどうしているのだろうか。