レクリエーションの一日
明け方、悪夢にうなされて目が覚めた。香織がセックスをしたいといって泣き叫んでいる夢だった。僕は当直だった寺山婦長に、興奮して訴えた。
「彼女も今、同じ夢を見たはずです。彼女が辛く思っていないか、不安でないか心配です。このように男女が同じ夢を同時に見ることを対幻想というのです」
婦長さんは落ち着いて僕の話を聞いてくれ、興奮のおさまった僕はまたベッドに戻り横になった。
吉本隆明は「共同幻想論」の中で人間関係を、自己幻想・対幻想・共同幻想の3つに分けて論じている。対幻想というのは、個人と家族・友人・恋人などの間のプライベートな関係を示す言葉なのだが、そのときの僕は、香織と僕が同時に同じ夢を見たという考えにとらわれ、そのような現象を生じさせるのが「対幻想」なのだと思い込んだのだ。
その日、12月2日は、病棟のレクリエーション行事で、湯河原に日帰りのバス旅行に行った。子どものとき以来のみかん狩りだった。みかん山の近くのバスを停めた駐車場の隣には、鉄筋コンクリート造の暗い無表情な建物があり、僕はそこも精神病院なのだと思い込んだ。文ちゃんにそのことを話すと、「Sさんは何で全部病気に結びつけて考えるの」と注意されたが、僕の確信は変わらなかった。
みかん狩りがはじまり、久しぶりの遠出に気分が高揚した僕は、海岸へ向かう石段をぴょんぴょんと跳ねるように下りていった。波打ち際で岩に砕け散る波を眺め、観光客のカップルに頼まれて、写真を撮ってあげた。寺山婦長があわてて石段を下りてきて、「Sさん!頼まれてやったの?」と僕に確かめた。今朝の明け方のこともあり、僕が興奮状態にないか、婦長さんに心配をかけてしまったようだ。
「大丈夫ですよ。今戻ります」あわてて駆け寄ってきて息の上がった年配の婦長さんの手を引いて、ゆっくりと僕は石段を上がっていった。
その後、昼食の時、僕はデザートのゼリーのパッケージに「特定保健用食品」*1というよう書かれているのに気がついた。僕はこのゼリーには抗精神病薬の成分が入っていて、我々精神障害者用に特別に用意された食事だったのだと思い込んだ。僕の心にはこの頃まだ、全てを病気と関連付けて捉えるような妄想傾向が残っていたのだ。
その日、全員で写した記念写真が今も手元に残っている。入院中の自分の姿が写っている写真はその1枚だけだ。
翌日の昼、ホールをのぞいてみると、いつものように萩原さんがスケッチブックに向かって色鉛筆で絵を描いていた。萩原さんは、見た目はごく普通のおばさんなのだが、不思議な色使いのシャープで抽象的な絵をいつも描いている。ジャズ・トランペッターのマイルス・デイヴィスが描く絵によく似ているのだ。みかん狩りで採ってきた葉のついたみかんを持っていって、「萩原さん、これ描いたら?」と僕も一緒にみかんのスケッチをはじめた。僕の描くごく平凡なみかんに比べて、萩原さんの描くみかんはやはり独特のセンスで、不思議な絵だった。
アウトサイダー・アートとかアール・ブリュットなどと称して精神障害者や知的障害者の美術作品が取り上げられることがあるが、萩原さんの絵にも、他人が真似のできない不思議な個性があった。
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