僕は統合失調症

30歳の時に発症した統合失調症の発病・入院・回復の記憶

バンド仲間との別れ

母が入院していたときのことだが、ベーシストのN君から久しぶりに連絡があった。調子が大丈夫なら、バンドの練習に復帰しないかという誘いだった。僕とテナーの広川君がフロントのフリー・ジャズ・バンドは休止していたが、クマ君がボーカルのロックバンドは、ライブハウスでの活動を続けていたのだ。


サックスを持って、久々にスタジオで練習した。新曲ばかりだったので、広川君とのホーンセクションのパートを組み立てて、音を合わせながら形にしていった。「Sちゃん、それだけ吹ければ大丈夫だよ。安心したよ」とドラムの岡本君が言った。「精神病院って、やっぱり拘束衣とかあったの?」とクマ君が興味深々で尋ねた。僕が開放病棟のあれこれを話すと「意外に自由なんだなあ」とみな驚いていた。「俺はSちゃんがずっと退院できなくなるんじゃないかと思って、入院には反対だったんだけど、やっぱり俺たちは今の精神病院のことわかってなかったんだね」とN君がしみじみと話した。


何回かの練習の後、高円寺のいつものライブハウスでの本番がやってきた。僕はずっと会っていなかった、学生時代からの友人2人をライブに誘った。新曲ばかりの初演で、荒削りなところもあったが、演奏は熱く盛り上がった。ホーンセクションといっても、かなり自由にソロもとり、集団即興のような展開もあり、楽しいライブだった。見に来てくれた友人2人も打ち上げに参加し一緒に安居酒屋で飲んだ。友人2人には僕の病気のことは一切教えていなかった。打ち上げはいつものとおり朝まで続く勢いだったが、無理をしないほうがよいと思い、僕は友人2人と途中で帰ることにした。


サックスの演奏も以前のようなテンションが維持でき、バンドのメンバーからも復帰できるよと言われたが、僕はそのライブを最後にバンド活動に参加しなくなった。激しい音のやり取りをするバンド活動は、まだ自分には無理があると思えたし、なんとなく意欲も失っていた。メンバーたちも、強くは引き止めなかった。みんな言葉にはしなかったけれど、急性期の僕を知っているだけに、無理をさせてはいけないと気を使わせてしまったのだろう。


「ライブの時には遊びに来てね。いつでも一緒にやろうよ」とN君は言ってくれたが、その後僕がバンドに参加することはなかった。バンドのメンバーたちはその後も演奏活動を続け、何人かはプロとして現在活躍している。彼らと再会するのはずっとのちのことになる。


香織やバンドの仲間たちから離れた僕は、昔からの友人と再びつき合うようになっていった。病気のことは一切ふせての交際だった。病気から回復していった僕は、自分の病気を知る仲間との関係にも距離を置きたかったのかもしれない。僕は自分が病気になった事実を忘れたかったのだろう。


対人関係に支障のある症状もなかった僕は、あいかわらず司法書士試験浪人中ということで、旧友たちとたまに会うようになった。


学生生活や、社会人生活を送っているさなかに発病した人の苦しみを僕は知らずにすんだ。僕が発病したのは、会社を辞めて、自宅で過ごしていたときのことだし、旧友たちとのつき合いもしばらく絶えていた。病気を知る仲間との関係を断ち、病気を知らない旧友たちとのつき合いを復活させ、何事もなかったかのような人間関係の中で僕は回復していくことになった。


もし僕が普通に社会生活を送っていたときに発病したならば、もっと人間関係に悩み苦しんだことだろう。これは僕の憶測なのだが、病院で見かけるデイケアに熱心な当事者たちは、自分の身の回りにあった人間関係から不幸にも阻害されてしまった人達なのかなあと思う。僕自身、直接発病の時期を知っている友人とは今もつき合いがない。ここ何年かで友人たちにカミングアウトするようになったが、話しの上でだけ聞かされるのと、実際に発病を目の当たりにするのとでは相手にとっても違いは大きいだろう。僕が当事者の多くが直面する苦しみを避けられたことを、不幸中の幸いといっていいものなのか、自分自身でもよくわからない。


少なくとも、全てを知り受け入れてくれる家族のありがたみは身にしみて感じるのである。