僕は統合失調症

30歳の時に発症した統合失調症の発病・入院・回復の記憶

サックスを吹いた

昨日、横浜の某所でフリー・ジャズのセッションがあった。学生時代よく一緒に演奏していたドラマーのおさむ君に、横浜を拠点に活動しているそのグループに誘われたのがきっかけ。今までに何回かセッションに参加したのだが、昨日はおさむ君の子ども2人も飛び入りする楽しい演奏だった。


打ち合わせや、決め事なく、即興で自由に音を創っていくのは、とても楽しい。サックス・クラリネット3人だけで音を合わせたり、詩の朗読にあわせて演奏したり、ドラムとベースがリズムを自在に変え4ビートからファンクになったり、キーボード・ピアニカ・ピアノで静かに絡み合ったり。ゆったりとビールなど飲みながら、セッションは延々と続いた。


この日は、グループを主宰するベテランサックス吹きのGさんと、おさむ君に病気のことをカミングアウトした。多少の迷いもあったのだが、フリー・ジャズを愛する仲間ならわかってくれると思ったからだ。「僕の知り合いにも統合失調症の人いるけど、Sさんの演奏見てたら元気なのわかるよ。これからもよろしく」とGさん。「Sさんにはフリー・ジャズがリハビリじゃない(笑)」とおさむ君。2人の温かい言葉がうれしかった。


後悔しないかと、なかなか踏み切れないカミングアウトだけれど、昨日はほんとにすっきりした。この人たちとならこれからも熱く楽しく音楽をやっていくことができる。それにしても思うのだが「統合失調症」という病名は、「精神分裂病」に比べれば、楽に口にすることができる。「病名を変えるだけなんて何になる」と、かつては思ったが、カミングアウトする者にも、される人にも意義があったのだなあと思う。


初対面で教える必要はないと思うけど、自分をわかってもらえる相手には勇気を持ってカミングアウト。心が軽くなります。


追記:おさむ君からメールが届いた。
「病気の件は正直おどろきましたが、Sさんなら、きっと上手に病気とも付き合っていけると信じています。あの演奏が証拠です。」

Live at the Five Spot 1

Live at the Five Spot 1

文子の言葉

朝6時半起床の病院から解放され、僕は毎日昼近くまで眠るようになった。とにかく眠くて起きられなかった。昼間も何もすることなくごろごろ。夜はなかなか寝付かれず夜更かしをした。そんな生活が長く続いた。病者への温かく真摯なまなざしを持つ精神科医中井久夫「最終講義 分裂病私見」の中でこのように述べている。

私の「回復」とは幻覚妄想が弱まり消失してから後の時期を指します。幻覚妄想が消えたら治ったのではありません。そこから治ってゆく過程が始まるのです。これは家族の方にもきちんと伝えておく必要があります。(中略)急性期の消耗は非常なものであると推定されます。その回復には十分な時間と庇護とが必要です。これは医師の間でも十分理解されていないかもしれません。

たとえごく短い急性期であっても、精神は多大なダメージを受ける。その回復には、急性期の何倍もの期間の休息が必要なのだ。幸い僕の家族は、焦ることなく僕の休息を見守ってくれた。退院したのにいつまでもダラダラしているとか、薬が強すぎるのではといった焦りは、患者自身も家族もとらわれるべきではないと思う。


そんなある日、仙台のR子さんから電話がかかってきた。彼女は大学のジャズ研の後輩で文子の同期。学生時代には僕たちは仲がよかった。僕は入院前に、文子の新しい恋人が精神病になり彼女が苦しんでいるという妄想に支配され、R子さんに電話をして文子のことを聞いていないか尋ねた。R子さんは僕の精神が変調を来たしていると察知し、入院中にも電話をくれ、心配してくれていたのだ。無事退院したことをR子さんは喜んでくれたが、彼女の今回の電話は文子からのことづけに関するものだった。


「S先輩、私ね文子ちゃんに電話したの。文子ちゃんにね、Sさんが今、あることでとても苦しんでいるから、連絡をしてあげて欲しいっていったの・・・。でも文子ちゃん、『わたしたちのことは、もう終わったことだから・・・なにも言わないで』って相手にしてもらえなかったの」

「文子ちゃん、ほんとに素敵な子だったのにね。わたしに一生懸命、光の三原色のこと教えてくれたり、夏合宿の時には夜、ふたりで上半身はだかんぼになって、ホテルの前のスキー場を走り回ったんだよ。わたしたちふたりともおっぱい小さいけどね・・・社会人になってから、だんだん変わっちゃったんだよね」


僕は、R子さんの言葉に胸が締めつけられた。僕は一生、文子に統合失調症になったことは伝えないだろうと思った。R子さんは、「S先輩、聴いてくださいね」と電話の向こうで即興でピアノを弾き始めた。スキャットを交えながら楽しそうに、のびやかに彼女は演奏してくれた。


「R子さん、ありがとう。いつか仙台に遊びに行くからね」
「待ってますよ」


僕はほどなく、R子さんに自分の入退院に関する簡単な手紙を送った。もちろんそのときには自分の病気を客観的に振り返るだけの余裕はなかったので、ごく簡単なものだったと思う。内容は忘れてしまった。


文子とは終わったのだ。やはり僕には香織しかいない。そのときの僕はそう信じていた。

最終講義―分裂病私見

最終講義―分裂病私見

掲示板を設置しました。

統合失調症(分裂病)当事者の日記」のよっしーさんの提案で、統合失調症について語り合う掲示板をシェアすることになりました。

僕のブログのコメント欄では書き込みにくいようなご意見も、是非書き込んでみてください。「僕は統合失調症」は僕個人の過去の振り返りを主なテーマにして書いています。掲示板の方では、今現在の問題を皆さんと語り合いたいなあと思っています。

ご自分のブログ、ホームページにもこの掲示板を設置していただける方がありましたら、よっしーさんのブログにお問い合わせください。

掲示板にはブログのトップにあるリンクからアクセスしてください。

草間彌生のカボチャ


先週、高校時代からの友人と2人で、瀬戸内海に浮かぶ香川県直島を旅した。ベネッセの運営する美術館とホテルのある島で、アートマニアにとっては憧れの島。安藤忠雄設計の魅力的な美術館・ホテル、島の集落の中の空き家・廃屋を再生した空間で現代アートの数々の作品に触れることができる。まるで島全体が美術館。天気にも恵まれ、のんびりアート三昧の楽しい旅だった。


地中美術館は中でも圧巻で、山の地下に巨大なコンクリートの美術館が埋め込まれるように建設されている。照明はトップライトからの自然光で、巨大なモネの「睡蓮」などが鑑賞できる。1日目の夕方と2日目の午前中2回訪れたが、時刻により館内の雰囲気が全く変化するのだ。


ジェームズ・タレルの「オープン・スカイ」という作品は、天井に大きな四角い穴が開いた空間で、切り取られた空の表情の移ろいを鑑賞するというもの。夕方6時からのイベントでは1時間近く、淡いブルーから濃紺へと変化する空を見続ける。最後には漆黒の空に星が輝き出し、宇宙そのものを感じるような荘厳な気持ちに包まれた。


この島のシンボルは、浜辺に佇む黄色いカボチャのオブジェ。草間彌生の作品だ。彼女は少女時代から統合失調症に苦しめられながら世界的なアーティストとなり、そのオブセッションから生み出される水玉模様を主要なモチーフにしている。このカボチャの表面にも執拗な黒い水玉が描かれている。一見かわいらしい島のシンボルとして、直島を訪れる人々に愛されているが、やはり僕はその作品の内奥に彼女の病を感じ取ってしまう。


旅に出るといつもより多めに睡眠薬を飲む。それでも刺激的な感動に寝付かれづ、友人と語り合う島の夜であった。

ベネッセアートサイト直島
草間彌生ホームページ

直島 瀬戸内アートの楽園 (とんぼの本)

直島 瀬戸内アートの楽園 (とんぼの本)

発病年齢のちがい

退院してから何年ものちのことだが、ある統合失調症の当事者の講演を聞きに行った。当事者の交流グループも主宰され、精力的に活動している方だ。僕よりも若い。高校生のときに発病、回復後コンビニのアルバイトを長く続け、現在は障害年金を受け、講演会・当事者会などの活動に忙しい日々だという。当時、週3回の塾講師のアルバイトをしていた僕は、彼のような生き方もありなんだなあと、目からうろこが落ちるような思いがした。障害を持つことをカミングアウトし、自由に生きる彼を見て、社会に復帰して、働くことだけが障害者の回復ではないのだと、気づかされた。彼の講演は話術も巧みで、楽しい内容だったが、ひとつだけ僕が反発を感じた発言がある。


「私は高校生のとき、何のきっかけも思い当たらないのに突然発病しました。わけのわからない若い時の発病ですから、失うものが何もなかったというのは、不幸中の幸いだったと思います。当事者の集まりでも、社会に出てから発病された方は、学歴が無駄になったり、職業を失ったりして、人生に失望されている方が多いですね。そういう方に比べると、私の方が気楽で楽天的に生きていけます」


そのような趣旨の彼の発言を聞いて、僕は「それはちがう」と思った。僕は確かに人生で多くのものを失った。受験勉強の苦労も、会社で努力した日々も、淡い恋や、深く愛した2人の女性も、司法書士への夢も、みな消えていった。でも自分の人生を考えるとき、そうした「失うもののある人生」の方がやはり豊かで幸せなのだと思った。これからの人生は別の生き方を求めて、のんびりやっていけばいいのだ。


発病年齢は、統合失調症の人とうつ病の人では違いがある。思春期の発病が多く30代くらいまでに発病する統合失調症に対し、うつ病の発病は中年期がピークだという。ライフサイクルからも、病気自体の症状からも、うつ病の人はより人生への喪失感に苦しまれるのだろうと思う。先日、長くうつ病に苦しまれている同世代の男性からコメントをいただいた。僕にはその方の悩みに対しアドバイスする力はない。でも、統合失調症者としてはおそい発病だった僕が確かに感じるのは「失うもののある人生」の方が幸せなんではないかなということだ。


若くして統合失調症を発病しながら、現在バリバリ働いて、熱のこもったブログを発信されている方もいる。「統合失調症(分裂病)当事者の日記」のよっしーさんだ。彼には僕などとは全く違う人生観があるに違いない。


発病年齢の違い、疾患の違いで精神障害者の生き方も人それぞれだと思う。今の僕に言えるのは「失うもののある人生」を過去にもち、それでもなお新しい幸せな生き方をしていくことは可能だし、それが障害の受容ではないかということだ。喜びも苦しみもあっての豊かな人生。


そんな今の僕の心境に至る心の変化を、回復編では伝えてみたい。

入院編を終えて

書き進めながら、いろいろなことを思い出した入院編。ほとんどの人とはそのとき限りの出会いでしたが、今は皆さんどうしておられるのでしょうか。嫌でたまらなかった入院生活も、今になって考えると、自分にとって何か得るものもあったのかなあと思います。僕が入院した13年も前と現在では、精神病院の状況も随分変わったのでしょう。それでも、鍵で閉ざされた空間で病気に苦しみ生きていくことは、辛いだろうことには変わりないでしょう。僕は当時入院した病院に今も外来で通っているのですが、時折見かける入院患者の中に、同室だった離島出身の斉木さんの姿がありました。すっかり老け込んで陰鬱な表情の斉木さんに、僕はとうとう声をかけることが出来ませんでした。社会的入院と称される人々の問題を社会はなんとかして解決して欲しいと願わずにはいられません。


恋愛編からはじまったこのブログも、これから退院後の回復編です。僕と文子と香織のその後の顛末についても語らないわけにはいかないと思っています。しばらくお休みさせていただいてから、回復編をスタートします。いつもお読み下さり、励ましていただく皆さんに感謝しております。

念願の退院

文恵さんは、僕より少し年上で、背が低く髪が短く、文子に少し雰囲気が似ていた。大部屋ではなく2人用の個室に入院していて、あまり部屋からは出てこなかった。僕は昼間部屋に行き、よく話をするようになった。若いときからの入院生活のためか、浮世ばなれしたところのある、少女のような、おとなしい人だった。

「私、漫画家になるのが子どものときからの夢なのよ」という彼女は、漫画家入門のような通信講座を病院に取り寄せていて、課題の絵をよく熱心に描いていた。統合失調症は知能の低下をまねくわけではないのだが、子どもっぽくなったり、社会性を失ってしまう患者は多い。


僕には、ようやく退院の日がやってきた。平成6年2月26日。前年の11月17日に入院してからおよそ3ヶ月の入院生活だった。一度入ったら出てこられないような閉鎖的なイメージのある精神病院だが、現実には多くの患者は短期間で退院している。


僕が入院し、現在も通院するT病院の2004年7月1日から2005年6月30日までのデータによれば、退院までの期間は1ヶ月以内が21%、3ヶ月以内が52%。87%の人が1年以内に退院している。その一方で社会的入院と称される長期入院者や、再発して入院を繰り返す患者が多いのも事実だ。入院患者のうち5年以上の入院が32%、過去に精神科での入院歴がある人の入院者に占める割合は75%にもなる。ちなみにT病院は精神科の単科病院の一般的な傾向どおり統合失調症の入院患者が91%を占める。大きな総合病院や公立病院では他の疾患の割合が増えるそうだ。


退院が決まると、僕は文恵さんに実家の住所を教えてもらった。正月には彼女も実家に帰るので、毎年年賀状ぐらい出してあげようと思ったのだ。翌年から文恵さんと年賀状をやり取りしはじめ、今もそれは続いている。彼女の年賀状には、いつも得意のイラストが添えられている。今は退院して、家で過ごしているそうだ。


長いようで短かった入院生活。急性期の症状が治まってからは、早く退院したいと焦る日々だったが、今振り返れば精神の休養のためには妥当な期間だったと思う。

食事だけが唯一の愉しみで、食事どきになると配膳所の前に長い行列を作る患者たちの姿や、長い夜、不眠のため病棟の薄暗い廊下のベンチでひそひそしゃべったり、所在なげに過ごす患者たちの姿が思い出される。


僕は閉鎖病棟に入院しなかったので、保護室なども目にしていない。精神病院に入院したといっても、僕が体験したのはそのごく一面に過ぎない。それでも様々な事情で精神病院に行き着いた多くの人々に出会った。よく、インドを旅すると、人が普通一生のうちに出会うあらゆることを1日で体験するというけれど、わずか3ヶ月の入院を通して、僕は多くの人たちの人生の縮図を見せられたような思いがする。


身の回りのものを車に積んで、T病院を後にした。家に帰ってから、クリスマスに香織から贈られドライフラワーにしていたカスミ草を、病室に忘れてきたことに気がついた。翌日急いで、「忘れ物をしました」と病棟に入れてもらった。しかしカスミ草はすでに片付けられてしまったらしく、どこにも見当たらなかった。それは香織と僕のその後を暗示するような出来事だった。「もう、こんなところに帰ってくるなよ」と的場さんに声をかけられお別れをした。


普通の病気ならば、退院は病からの解放を意味する。しかし精神病は、退院してからが長い病とのつき合いの始まりなのだ。そのときの僕はそのことをまだ理解してはいなかった。僕は解放感と安堵感だけに包まれていた。