僕は統合失調症

30歳の時に発症した統合失調症の発病・入院・回復の記憶

denさんに会った

新緑の京都へ、2泊3日の小旅行をした。友人夫婦と一緒だったのだが、昼間は僕はひとりで仏像や庭園を見てまわり、夜は居酒屋で合流。その日にあったことなどを語り合う。みうらじゅんいとうせいこうの「見仏記」のように、僕は仏像オタクなのです。京都で飲んだ老舗の風情ある佇まいの居酒屋は、酒も料理もおいしく、店員のおっちゃんたちも威勢がよく、大満足であった。


2日目は、先に帰る友人夫婦と別れ、「統合失調症に関する掲示板」で知り合ったdenさんに、初めてお会いした。彼は京都で大学生活を送っている。旅行直前になり、思い切ってメールを送りお誘いしたのだ。


京都大学近くの進々堂という歴史ある喫茶店で待ち合わせ。どんな人だろうかとどきどきする。denさんは彼のブログや、掲示板の書き込みから受けた印象どおりの、温かく明るい、しっかりした誠実な青年だった。初対面にもかかわらず、いろいろ共通の話題に事欠かない僕たちは、会話が途切れることがなかった。鴨川沿いのレトロな近代建築の中華料理店の川床(オープンテラス)に場所を移して、ビールで乾杯。この店は文子が大阪に住んでいた頃に2回ぐらい来たことのある思い出の店なのだ。文子が好物だった春巻きをつまんでいると、つい感傷的になってしまった。


ネットで知り合った、しかも当事者同士で会うというのは、はじめての経験だったが、やはり顔を見合わせて話しをすることの大切さを実感した。denさんはネットのイメージどおりの青年だったが、彼の僕に対する印象はちょっと意外だったそうだ。ぼくをもっと物静かな男だとイメージしていたそうなのだが、実際の僕は結構おしゃべりなのです。


denさんと別れたあと、前夜も飲んだジャズ・バーへ。京都最後の夜をフリージャズやチャーリー・パーカーを聴きながらゆっくりと過ごした。

見仏記 (角川文庫)

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バード・アンド・ディズ+3

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作業療法士の憂鬱

退院後だいぶたって、H先生からデイケアに出てみてはどうかと話しがあった。「若い女の子もたくさんいますよ」
とりあえず、診察日の午後だけ、僕はデイケアに顔を出すようになった。


現在ではT病院にはデイケア専用の大きな施設があるが、当時は開放病棟の片隅の小さなホールや、入院患者の作業療法用のキッチンを借りて、細々とデイケアを行っていた。毎日のように通っているらしい人もいて、若い人が多かったが、年配の夫婦で参加している人もいた。


料理教室では豚汁とかハンバーグとか簡単なものを作ったが、料理に心得のある僕はそんなとき頼られる存在になった。病院の車に分乗して、近くのボーリング場へ行くことも度々あった。みんな下手だったが、わきあいあいとゲームを楽しんだ。


当事者同士、お互いの病気のことはほとんど話題にしなかった。たまに、幻聴がしつこく聴こえると悩んでいる女の子もいたが、デイケアは一見ごく普通の大人しい人達の集まりだった。


スタッフの作業療法士の真樹さんは、小柄で快活なチャーミングな女性だった。あるときデイケアルームで彼女とふたりになったことがある。雑誌に目を落としていた彼女は、いつになく沈んだ表情をしていた。「わたしもほんというと疲れちゃうときもあるのよ」と彼女はもらした。それ以上深く話しをせず、僕はそのとき持っていた本を彼女に見せた。「今、これ読み返してるんですよ」村上春樹の短編集パン屋再襲撃だった。「これ、面白いんだよね。わたしも読んだわ」真樹さんの表情に笑みが戻った。


それからも、ぽつりぽつりとデイケアに参加したが、僕にはコミュニケーションの障害などもなかったし、友人とのつき合いも再開していて、デイケアに特に得るものがあるとは思えなかった。親しい知り合いができれば、当事者でなければできない相談相手にもなったかもしれないが、僕にはそのような積極性は欠けていた。その年の暮れの忘年会に出席したのを最後に、僕はデイケアを離れていった。

パン屋再襲撃 (文春文庫)

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バンド仲間との別れ

母が入院していたときのことだが、ベーシストのN君から久しぶりに連絡があった。調子が大丈夫なら、バンドの練習に復帰しないかという誘いだった。僕とテナーの広川君がフロントのフリー・ジャズ・バンドは休止していたが、クマ君がボーカルのロックバンドは、ライブハウスでの活動を続けていたのだ。


サックスを持って、久々にスタジオで練習した。新曲ばかりだったので、広川君とのホーンセクションのパートを組み立てて、音を合わせながら形にしていった。「Sちゃん、それだけ吹ければ大丈夫だよ。安心したよ」とドラムの岡本君が言った。「精神病院って、やっぱり拘束衣とかあったの?」とクマ君が興味深々で尋ねた。僕が開放病棟のあれこれを話すと「意外に自由なんだなあ」とみな驚いていた。「俺はSちゃんがずっと退院できなくなるんじゃないかと思って、入院には反対だったんだけど、やっぱり俺たちは今の精神病院のことわかってなかったんだね」とN君がしみじみと話した。


何回かの練習の後、高円寺のいつものライブハウスでの本番がやってきた。僕はずっと会っていなかった、学生時代からの友人2人をライブに誘った。新曲ばかりの初演で、荒削りなところもあったが、演奏は熱く盛り上がった。ホーンセクションといっても、かなり自由にソロもとり、集団即興のような展開もあり、楽しいライブだった。見に来てくれた友人2人も打ち上げに参加し一緒に安居酒屋で飲んだ。友人2人には僕の病気のことは一切教えていなかった。打ち上げはいつものとおり朝まで続く勢いだったが、無理をしないほうがよいと思い、僕は友人2人と途中で帰ることにした。


サックスの演奏も以前のようなテンションが維持でき、バンドのメンバーからも復帰できるよと言われたが、僕はそのライブを最後にバンド活動に参加しなくなった。激しい音のやり取りをするバンド活動は、まだ自分には無理があると思えたし、なんとなく意欲も失っていた。メンバーたちも、強くは引き止めなかった。みんな言葉にはしなかったけれど、急性期の僕を知っているだけに、無理をさせてはいけないと気を使わせてしまったのだろう。


「ライブの時には遊びに来てね。いつでも一緒にやろうよ」とN君は言ってくれたが、その後僕がバンドに参加することはなかった。バンドのメンバーたちはその後も演奏活動を続け、何人かはプロとして現在活躍している。彼らと再会するのはずっとのちのことになる。


香織やバンドの仲間たちから離れた僕は、昔からの友人と再びつき合うようになっていった。病気のことは一切ふせての交際だった。病気から回復していった僕は、自分の病気を知る仲間との関係にも距離を置きたかったのかもしれない。僕は自分が病気になった事実を忘れたかったのだろう。


対人関係に支障のある症状もなかった僕は、あいかわらず司法書士試験浪人中ということで、旧友たちとたまに会うようになった。


学生生活や、社会人生活を送っているさなかに発病した人の苦しみを僕は知らずにすんだ。僕が発病したのは、会社を辞めて、自宅で過ごしていたときのことだし、旧友たちとのつき合いもしばらく絶えていた。病気を知る仲間との関係を断ち、病気を知らない旧友たちとのつき合いを復活させ、何事もなかったかのような人間関係の中で僕は回復していくことになった。


もし僕が普通に社会生活を送っていたときに発病したならば、もっと人間関係に悩み苦しんだことだろう。これは僕の憶測なのだが、病院で見かけるデイケアに熱心な当事者たちは、自分の身の回りにあった人間関係から不幸にも阻害されてしまった人達なのかなあと思う。僕自身、直接発病の時期を知っている友人とは今もつき合いがない。ここ何年かで友人たちにカミングアウトするようになったが、話しの上でだけ聞かされるのと、実際に発病を目の当たりにするのとでは相手にとっても違いは大きいだろう。僕が当事者の多くが直面する苦しみを避けられたことを、不幸中の幸いといっていいものなのか、自分自身でもよくわからない。


少なくとも、全てを知り受け入れてくれる家族のありがたみは身にしみて感じるのである。

母の発病

2月の退院からふた月ほどがたった頃、母の様子がおかしくなった。はじめは、夕食の献立が思いつかないと気にしだし、やがて不眠がはじまった。4月9日の僕の診察のとき、母もH先生の初診を受けた。軽い睡眠薬などを処方してもらったのだが、母の調子は日に日に悪くなり、うつ症状に陥った。


「ほんの少し、入院して休めば具合がよくなるでしょう」とH先生に勧められ、4月30日に母はT病院に入院した。僕を知っている患者に会いたくないということで、女子の閉鎖病棟の個室に入ることになった。しかし、母は体質的に強い抗うつ剤を受けつけず、効果的な薬物療法が進まなかった。入院後、症状はさらに悪化し、トイレや風呂にも介助がないと行けない状態となり、面会に行っても、虚ろな表情をしていた。


僕はあいかわらず昼夜逆転の生活、弟は仕事で帰りが遅く、定年後も働いていた父が、全ての家事を負担した。母の入院のことは、香織には話せなかった。彼女の心にこれ以上の負担をかけることを避けたかったからだ。母の入院後、ひと月ほどして僕の誕生日がやってきて、それが香織との別れになった。僕には、香織に執着する心の余裕はなかった。


H先生が1〜2週間と見込んでいた母の入院は延々と長引き、結局退院できたのは、その年の8月31日のこと。十分回復しての退院ではなく、退院後もしばらく母は家事はできなかった。僕はその夏、調子も回復し、少しづつ司法書士試験の勉強を再開した。しかし、病気のためか、薬の副作用のためか、僕の記憶力は大きく低下していた。テキストを何回読んでも、六法全書を何度引いても、記憶が定着しなかった。それでも、そのうち何とかもっと能力が回復するだろうと、僕はまだ楽観的だった。もともと料理が好きだったので、夕食の支度は進んで手伝うようになった。生活リズムの乱れと不眠を除けば、幻聴や妄想、陰性症状もなく生活に支障はなかった。


母の発病は予想外の出来事だったが、幸い再発を引き起こすほどのストレスにはならなかった。僕の入院のショックで母は強いダメージを受け耐え続けていたが、退院が心の緊張を緩めたことが発病のきっかけになってしまったのだろう。


僕は急性期の頃に、「母が若い時、精神病だった」という妄想を抱いたことがある。皮肉にもその妄想は、時を越えて現実となってしまったのだ。

香織との別れ②

香織は自分と渡辺君の浮気が僕を追い詰めて、発病させたのだと責任を感じ、ずっと悩んでいたのだ。それでも僕を支えるため入院中も面会に来てくれたのだろう。


「わたし、本当はまた渡辺君と会ってるの。・・・ごめんなさい」


僕には、あまりショックはなかった。諦念のようなものが静かに胸の奥にわいてきた。仕方ないことだと思った。やはり香織は精神病院に入院した僕よりも、渡辺君を選んだのだ。僕の病気のことを、自分ひとりで受け止め切れなかった彼女は、渡辺君に悩みを相談し、ふたりはまたつき合い出していたのだった。


生理のとき、香織はいつも口と手で射精させてくれたが、その夜はお互いに身体に触れることもなかった。そのときの僕には射精もできなかったかも知れないけれど。睡眠薬を飲んでもしばらく寝付けなかった。あまり言葉も交わさず時間が過ぎた。香織はやがて静かに寝息を立てはじめた。


翌日、僕は商店街の店で大きな段ボール箱をもらってきて、香織の部屋に置いた衣類・本・CDなどを詰め込んだ。香織が気に入っていた何枚かのCDは置いていった。日本人のボサノバ・バンドのシャカラや坂本龍一の「音楽図鑑」など。細野晴臣が好きだった文子と、坂本龍一が好きな香織。対照的だなあと思う。


荷物で一杯になった段ボール箱をコンビニに持ち込んで、宅配便で自宅に発送した。


「香織、今日は最後に一緒に飲んでくれる?」
「うん」
「じゃあ、いつもの店でいいか」


僕たちは夕方、香織の住む街にある、行きつけの居酒屋へ出かけた。生ビールに焼酎、いつものおつまみ。いわしの天ぷらがうまい。今日で別れるふたりだなんて思えないほど穏やかに飲めた。小さな私鉄の駅の改札で握手をして別れた。振り返ると改札の向こうで香織はじっと立っていた。どんな表情をしていたかは思い出せない。


もし香織が入院中、会いに来てくれなかったなら、僕の回復にはもっと時間がかかっていたことだろう。結果的に僕たちは別れることになったが、香織を恨む気持ちはなかった。ただ、ひとりぼっちになってしまった寂しさだけが僕を包んだ。急性期のさなか、夜通し歩いて向かったこの街に、もう来ることはないだろう。

音楽図鑑完璧盤

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レシーフェの風

レシーフェの風

香織との別れ①

香織とは電話では度々話したが、なかなか会う約束ができなかった。会っても彼女のアパートに泊めてもらうことはなくなった。


5月になり、僕の31歳の誕生日がやってきた。その日はちょうど土曜日の診察の日で、いつものように短い問診が終わり薬を受け取ると、僕は香織と待ち合わせた新宿にまっすぐ向かった。JAZZが流れる喫茶店で待っていると、いつもよりお洒落なプリント柄のシャツを着た香織がやってきた。

「今日は、わたしがパエリヤ作るからね」

ふたりでデパートの食品売り場で材料を品定め。ムール貝・チョリソー・鶏肉・殻付エビ・パプリカなどを買い、高野でシャブリ(白ワイン)とデザートのマンゴーなどを手に入れる。サングリア*1用に赤ワインとオレンジ・林檎も買う。大きな買い物袋を提げて、香織のアパートに久しぶりに向かった。


部屋は今日のためにか、きれいに片付けられ、午後の光が差し込んでいた。窓を開けると春の風が心地よい。僕はいつも使っているサングリア用のガラス器に赤ワインを注ぎ、オレンジと林檎のスライスを漬け込んだ。香織はパエリヤ作り。具材をオリーブオイルで炒め、生米を加え、サフラン水を入れて色鮮やかに。オーブンに入れて炊きはじめた。


まずはビールで乾杯。氷で冷やした白ワインを開け飲んでいるうちに、パエリヤが出来上がった。満艦飾のパエリヤは、ムール貝の黒、パプリカの赤が鮮やかだ。料理好きの香織だけにとてもおいしい。


「うまいなあ」
「今日はSさんの誕生日だからね」


食後のデザートも食べごろごろした後、お風呂に入る。ユニットバスにしては大きな浴槽なのでいつもはふたりで一緒に入るのだが、この日はひとりづつ入った。「今日、わたし生理なんだ」


布団を敷いて、風呂上りのビールをふたりで飲んで横になる。

「今日は泊まっていっていいよ。特別な日だからね」

しばらく、ボサノバのCDなど聴いているとき、香織が天井を見ながら静かに言った。

「わたし苦しいんだ。・・・Sさんと一緒にいると胸が苦しくなるんだ」

*1:果実を漬け込んだスペイン風のワイン

気楽な精神科医

退院後は、引き続きH先生の診療で、2週間に1回、T病院の外来に通いはじめた。はじめしばらくは親と同伴で診察を受けた。


「変わりはないですか」
「はい」
「夜は眠れますか」
「薬を飲んでもなかなか寝付けないのですが」
「部屋を暗くして15分もすれば寝られるはずです」
「そうですか」
「じゃあ同じ薬出しておきますから」


いつもこの調子の3分にも満たない診療。その上、H先生はしばしば9時の診察開始時間に30分以上遅刻してきた。こちらは、受付順の診察なので順番取りのため8時には病院に来ているというのに。たまりかねた親が院長に苦情を言ったこともあるが、「若い人は研究なんかで忙しいですからね」と答えるばかり。H先生はいつも黒いオープンカーの外車で来院していた。東大医学部を出て、週1回の非常勤勤務の3分間診療で稼ぎ、研究者を目指してお勉強。精神科医とはいいご身分だなと思った。退院後何年間かH先生の診療を受けたが、終始事務的で、親しみを感じたことは一度もない。それでも、精神科医なんて現実にはみんなこんなものなのだなとあきらめていた。退院後の回復は順調で、腕は悪くない医師なのだろうなと当時は思った。しかし僕自身の自然治癒力が優れていただけなのかもしれない。退院後も病名の告知はなかった。生命保険申請用の診断書には「神経衰弱」と記されていた。


香織とはなかなか会う約束ができなかった。昼は派遣社員・夜は建築デザインの専門学校で学ぶ彼女は忙しかった。花見の時期のある平日の夕方、学校が休講なのでデートすることになった。隅田川に出かけた。あいにくの雨だったが、寿司を買い川下りの遊覧船に乗り、桜を見物した。暗くなる中、雨に煙り、桜はあまりよく見えなかった。「この前の天気のいい日に来ればよかったね。会ってあげられなくてごめんなさい」と香織は何度も繰り返し謝った。それでも、退院してふたりで会うことができて、僕は満足だった。夜になり香織のアパートに行きたいというと、彼女はかたくなに断った。「ちょっと散らかってるから。ごめんね」


刺激の多かった入院中に比べ、退院後の平凡な日々の記憶は不鮮明だ。急性期の疲弊と、薬物の抑制効果で、神経が休眠していたためなのだろう。その頃のことは、薄い膜がかかっている向こうの出来事のようにあいまいで、はっきりとした輪郭を結ばない。