僕は統合失調症

30歳の時に発症した統合失調症の発病・入院・回復の記憶

不眠の続く夜

叔母が死んだ翌日、納棺のために親族が集まった。そして叔母の家を片付け葬儀の準備。通夜の晩には朝まで一睡も出来なかった。告別式の日の夜にも不眠は続き、憔悴し神経が昂ぶった。

叔母の娘〈従姉妹)は、そのころ社会問題化していた自己啓発セミナーのトレーナーをやっていた。葬儀にもセミナーの社員が大勢手伝いにやってきて、告別式の翌日には社長自らがあいさつにやってきた。僕は彼らに不気味な恐怖感を覚えた。僕は以前から自己啓発セミナーの問題に関心があり、二澤雅喜と島田裕巳「洗脳体験」*1なども読んでいた。葬儀に集まった従兄弟たちや親に、僕は興奮気味に自己啓発セミナーの危険性を説いた。実際、叔母の家族は、弟も父親もすでにセミナーに参加させられていた。

やがて僕の心の中に、セミナーの社員たちと、香織が浮気した渡辺君の間に関係があるのではないかという疑念がわいてきた。彼らは渡辺君が通った精神科の医師と関係があり、渡辺君の依頼で僕の親族のことをスパイさせているのだ。現実には、こういう家族の死などの問題があったときに退職されるのを防ぐため、セミナー側は必要以上の葬儀への協力をしたのかも知れない。しかし僕には彼らが、執拗に介入してくる不気味な他者として妄想の対象になってしまったのだろう。

僕の親族には精神に変調のある者が2人いた。母の妹は二十歳くらの時に統合失調症になり、入退院を繰り返していた。母の兄の娘にあたる従姉妹は、高校生の時に情緒不安定となり、普通に生活はしているが、家庭内で暴力をふるい荒れることが多かった。極端な奇行もあり境界性人格障害ではないかと思われる。渡辺君はこのような僕の親族の秘密を暴いて、香織との仲を引き裂こうとしているのだと僕は思い込んだ。


葬儀が終わってすぐ、都内のライブハウスでの演奏のため、スタジオ練習があった。家をでて電車に乗り込むと、自分が透明な膜のようなものに包み込まれて、世界から隔絶されたような息苦しさに襲われた。そのとき自分は会社を退職したころからずっと、実はノイローゼにおちいっていて今そのことの自覚症状が出ているのではないだろうかと思い始めた。ひとりスタジオに先に着きみんなを待った。バンドのメンバーが集まると、世界から隔絶されたような感覚は解消し、リラックスすることが出来た。メンバーにそのことを話し、不眠が続いていることを伝えると、学生時代福祉を専攻していたテナーの広川君は、「ちょっと精神状態がおかしくなっているかもしれないぞ」と心配した。それでも翌日のライブは予定通りということにして、香織のアパートに寄った。彼女は今日も仕事の後、学校に行っていて留守にしていた。

最近、アパートの1階の部屋がひとつ空いたと香織が言っていたのを思い出した。僕の心の中にはまた渡辺君の影が現れた。渡辺君が誰かを雇って、1階の空き部屋から香織の部屋に出入りする僕を見張らせているのだ。ドアレンズを覗き込むと、人影のようなものが見える。僕はしばらくじっとレンズ越しに外を見張り、聞き耳を立てた。恐ろしくなった僕は、香織の帰宅を待たず家に帰った。帰りの電車の中では、また空気の膜に閉ざされた感覚がし、乗客たちがひそひそと自分のことを話しているのが聞こえた。


確実に僕の病気は始まっていた。

*1:洗脳体験―増補版 (宝島社文庫) 自己啓発セミナーの詳細な体験記 現在宝島文庫版で読める