僕は統合失調症

30歳の時に発症した統合失調症の発病・入院・回復の記憶

手洗いがやめられない

単独外出の許可が出る前から、毎朝のように散歩に誘ってくれたのが小倉さんだ。頭を丸刈りにした人のいいおじさんで、病室が一緒だったわけでもないのだが、よく話をした。


6時半に起床して、ラジオ体操・朝食の後、病院の近くの住宅街を散歩した。寒い冬のことで、香織からクリスマスにもらったチェックのマフラーを巻いていった。午前中の住宅街はいつもしんとして人通りがなかった。小倉さんとのんびり歩きながら、公園のベンチでひと休みする。かつてはまわりに人家もない山の中に建てられた精神病院が、周囲の開発で新興の住宅街に取り囲まれるようになった。患者たちが散歩に出歩くのを用心して、付近の住民は外出しないのかもしれないなと思った。児童公園でもほとんど子どもを見かけなかった。冬の外気はすがすがしかったが、病院の外を散歩していても社会から隔絶された気分は消えなかった。


小倉さんは元警察官だった。どんな部署にいたのか尋ねても、「俺は警察といっても人に言えないような仕事をしてたからね」としか答えてくれなかった。もしかしたら公安関係の仕事をしていたのかもしれない。「女房や娘には、お父さんはもう帰ってこなくていいよっていわれてるんだよ」


ある日、洗面所で小倉さんを見かけた。手を洗っているのだが、様子がおかしい。声をかけると、血相を変え血走った目で、「俺はこうなっちゃうともうだめなんだよ」と小倉さんはいい、また執拗に手を洗い続けた。強迫神経症の症状らしかった。いつもの柔和な小倉さんの表情からは想像もできないような、険しい悲痛な表情だった。


それからも、毎朝のように小倉さんとの散歩は続いた。小倉さんが強迫症状におちいっているのを目にしたのは1回だけだった。病気が人格まで変えてしまうような、その時の小倉さんの表情は今でも記憶に残っている。