僕は統合失調症

30歳の時に発症した統合失調症の発病・入院・回復の記憶

芝居の稽古

看護婦の磯山さんに1月のある日、「Sさん、お芝居にでてくれない?」といわれた。2月に市内の精神病院が合同で開催する芸術祭があり、T病院では出し物に演劇を企画しているというのだ。「それまでは退院できないんだなあ」とがっかりしたが、とりあえず台本を見せてもらった。南の島の王様とお姫様が主役の、簡単な芝居だった。脇役でその他の土人が何人か出てくるのだが、その役でよければやりますよと承知した。それから週に何回か、午後に練習があった。開放病棟だけでなく、男女それぞれの閉鎖病棟からも参加者があり、王様役は寺山婦長、お姫様役は閉鎖病棟のたき子さんだった。たき子さんは髪の長いすらりとした人で、僕と同世代だった。病気のせいか、ぴりぴりと緊張した面持ちでいつも練習に参加する彼女を見ていると、「ノルウェイの森」の直子を思い起こした。触れるともろく崩れてしまいそうな繊細な女性だった。


僕と同じく土人役の年配の男性も閉鎖病棟の人だったが、話してみるとごく普通の人で、閉鎖病棟と開放病棟の境界などあいまいに思えた。芝居は結局セリフを全部録音して、本番はアテ振りだけすることになり、やがて本番の2月8日がやってきた。会場のホールに劇の出演者と、病棟からの見学の患者も何人か向かった。他の病院の出し物は合唱が多かっただろうか。演劇もあった。僕たちの芝居も無事に失敗なく終わり、最後に全盲の若い男性ピアニストのクラシックの演奏を鑑賞した。


正直なところ、小学生低学年のような芝居をやらされて、馬鹿にされたような気分だった。主催している福祉関係者だけが自己満足でやっている企画のように思えた。知的障害者の実情は知らないので、偏見のある表現になるかもしれないが、福祉に携わっている人達にとっては、精神障害者知的障害者も同じように扱えばよいと考えているとしか感じられなかった。全盲のピアニストのすばらしい演奏が聴けたのが救いだった。練習もいい暇つぶしにはなった。


たき子さんとは、退院後しばらくして再会した。彼女も退院して、通院するようになっていたのだ。「ねえ、お芝居のときの人でしょ」と彼女は明るく声をかけてきた。回復した彼女は、快活で明るい女性で、芝居の時とは別人のようだった。その後も何回か病院で会い、話をするようになったが、若々しく見えた彼女も結婚していて子どももいると聞いた。再発を繰り返している彼女は、仕方なく子どもを施設に預けているそうだ。最近も時々病院で会うが、調子もよくなり、安定しているそうだ。病気で陰りのあるたき子さんも魅力的だったのだが、やはり元気で明るい彼女を見ているとうれしくなる。彼女は「ノルウェイの森」の直子であり、緑でもあったのだ。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

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ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

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