僕は統合失調症

30歳の時に発症した統合失調症の発病・入院・回復の記憶

歩き続けた夜②

夜道を歩き続けるうちに、僕の精神はさらに昂揚していった。最初は人影を見ると遠ざかり、交番の前は迂回したりしていたのだが、次第に周囲が気にならなくなり、ずんずん歩いて行くようになった。僕は誰の注意も引かず、見とがめられもしないことが不思議に思えてきた。

そして僕の妄想はピークを迎えた。今、僕が香織のアパートに向かって歩いていることを、まわりの皆が知っているのではないだろうか。きっとテレビでこのことが放送され、僕が歩く道沿いの人々はひそかに応援してくれているのに違いない。僕は意気揚々と歩き続けた。僕の心は一種の全能感に支配されていた。

やがて空が白んできた。あたりが明るくなり、新聞配達の人や商店街で通りを掃除する人を見かけるようになった。僕の精神の昂ぶりも次第におさまり、朝の冷気に身体が芯まで冷えてきた。


「全ては僕の妄想だったんだ。僕の精神は異常になっている」


ふっと、憑き物が落ちたように、僕はわれに帰った。気がつくと僕はとあるマンションの前に立ち尽くしていた。管理人らしき婦人が、掃除に出てきて僕に気がついた。憔悴し切って、靴も履いていない僕を見て、彼女は事情を察したらしく、「うちに住んでいる人でも、よく具合の悪くなる人がいるのよ。心配しないでいいわよ」と声をかけてくれた。「家の人に自分で電話できる?」と聞かれたが、僕は財布も持っていなかった。彼女から小銭を貸してもらい、公衆電話に向かった。身体がガクガクと震え、指先が思うように動かず、僕は電話をかけることすらできなかった。彼女はサンダルを持ってきてくれ、僕にはかせると、「しばらく待っていてね」と部屋に戻っていった。


やがてパトカーに乗った警察官がやってきた。僕は彼らに保護され近くの警察署に連れて行かれた。がらんとした部屋に通され、パイプ椅子に座ってしばらく待っていると、初老のスーツを着た警官がひとりやってきた。
「君は水虫かね」
はだしで歩いていた僕への冗談のつもりか、そういった後、住所と名前と電話番号を聞かれた。落ち着いてきていた僕は、たどたどしいながらも正しく返事をした。あいだを置いてもう一度同じ質問をされた。僕の精神状態がまともでないと見て、確認のためだったのだろう。僕は住所・氏名・電話番号を繰り返した。

部屋でじっと待ち続けた。空気の膜で身体が閉ざされているような重苦しい感覚がした。やがて連絡を受けた父が車でむかえにやってきた。朝、僕の姿がないことに気づき、家の近くを探し始めたところに警察から電話があったという。僕は夜通し歩いて、横浜から、環七沿いの都内の見知らぬ街まできていたのだ。